ロンドン訪問記 その5 -RAFミュージアム(第二次大戦期 前編)-

お次は第二次大戦を戦った機体の数々です。たくさんあるので2回に分けます。


こんな感じで様々な機体が所狭しと展示されています。


最初は、Curtiss P-40N Kittyhawk IV。米陸軍では Warhawkという名で有名ですが、英国向け仕様の機体はKittyhawkと名付けられました。これはその最終型。


Spitfire F24。戦後の1946年から1952年にかけて生産されたスピットファイアの最終型です。エンジンはMk. XIIからそれまでのRolls-Royce Merlinに代わって搭載されたRolls-Royce Griffon。グリフォン搭載のスピットファイアは、出力の増大(つまり燃費が悪い)に伴って航続距離が低下。加えてマーリンとはプロペラ回転方向が逆(というよりマーリンの回転方向が通常のイギリス系エンジンとは逆)だっため、当て舵が逆になってそれまでのスピットファイアの操縦に慣れ親しんだパイロットには不評だったとか。


さて、そのRolls-Royce Griffonです。液冷V型12気筒、36.7リットル、2,500hp。


Republic Thunderbolt II KL216。大戦末期に投入された重戦闘機です。爆撃機としても使われました。米軍ではP-47として知られています。この重鈍な図体で690km/hという速度を出したというから驚きです。搭載されるPlatt & Whitney R-2800(通称Double Wasp)空冷星型複列18気筒のエンジンから2,400hpの出力を絞り出します。


Hawker Typhoon 1B。ハリケーン、スピットファイアの後継として開発された戦闘機ですが、問題が多発したために戦闘機としては使い物にならず、後に対地攻撃(主に独戦車)機として成功を収めた機体です。ネイピア・セイバーという液冷H型24気筒という大エンジンで最大速度648km/hを出したそうです。


さて、いよいよ主役級の登場です。まずは、Hawker Harricane Mk I。

イギリス防空戦(バトル・オブ・ブリテン)を戦い抜いた機体です。当時の先進技術であった引込脚を備えてはいたものの、機体構造は鋼管溶接羽布張りという複葉機時代のもの。スピットファイアや他国の第一線機が外板に強度剛性をもたせるモノコック構造の採用が進む中では旧態依然の設計だったといいます。
バトル・オブ・ブリテンではスピットファイアの活躍が目立ちますが、撃墜機数、輩出したエース数ともにハリケーン部隊のほうが多かったそうです(ただし、撃墜相手の多くは与し易い爆撃機)。

第二次大戦のRAFパイロットにして短編の名手、ロアルド・ダールの『単独飛行』に、彼がアフリカ戦線で乗ったハリケーンのことが書かれています。


真打登場!スピットファイアです。これが見たくてここに来たようなもの。バトル・オブ・ブリテンで大活躍し、イギリスをドイツ空軍の猛攻から守りぬいた救国の戦闘機としてあまりにも有名です。映画『Battle of Britain』(邦題『空軍大戦略』、1969年公開)や『ダークブルー』で実機が登場します。

この写真は、最初の量産型、Supermarine Spitfire Mk.I。

設計はレジナルド・J・ミッチェル。スーパーマリーン社に在籍した21年の間に、海軍機、レース機、そしてスピットファイアに至るまで24機あまりの機種を設計したそうです。スピットファイア以前の傑作には、第一次大戦後盛んに行われたシュナイダー・トロフィー・レース(水上機のスピードレース)の優勝機、スーパーマリーン S.6があります。

RAFの次期主力戦闘機の主任設計士に任命された彼は、大腸癌に侵されていたにもかかわらず設計に取り組み、試作機の初飛行にこぎつけます。1936年3月5日に初飛行した試作機(K5054)は、557km/hの最高速度を記録。同じロールスロイス・マーリンエンジンを搭載し、4ヶ月前に初飛行したハリケーンより60km/hも速い速度でした。

しかし、このK5054がミッチェルが目にすることのできた唯一のスピットファイアになりました。量産初号機の完成を見ることなく、1937年6月11日金曜日、42歳の若さでミッチェルは世を去ります。スピットファイアの総生産機数は22,750機あまり。戦闘機の生産数としてはドイツのメッサーシュミット(約35,000機)に次ぐ数です(ちなみに、ハリケーンの総生産機数は約14,600機)。

余談ですが、スピットファイア(Spitfire)とは、「spit(吐く)」+「fire(火)」で、元の意味は火を吐くもの(大砲など)。ここから転じて「癇癪持ち(特に女性)」を意味するようになったそうです。名付けたのスーパーマリーン社の親会社(ビッカーズ・アームストロング社)の取締役。ミッチェルはこの名を気に入らなかったといいます。

前編最後は、 De Havilland Mosquito。なんと木製。
木製民間機の製造(ヒット作は練習機タイガーモス)を得意としていたデ・ハビランド社が初めて手がけた軍用機。木製の機体設計が完成すれば金属製に比べて治工具は簡単、家具メーカーも製造に参画できるとあって、約7,800機も作られました。

当初は高速偵察機として設計されましたが後に戦闘機や爆撃機の先導機(目標地点にパラシュート付きの照明弾を落として高速で離脱する)として活躍しました。
なお、デ・ハビランド社は前述のモスシリーズ生産のためにカナダに製造子会社デ・ハビランド・カナダ(DHC)を設立します。DHCは後に国有化された後ボーイングに売却され、さらにボンバルディアに買収されます。

DHCで最後に開発された双発のプロペラ旅客機は今でもボンバルディアDHC-8として世界の(もちろん日本も)空を飛んでいます。ところが、ボンバルディアは、Cシリーズをエアバスに、CRJシリーズ(アイベックスエアラインズが飛ばしているやつ)は三菱重工に、Qシリーズ(DHC-8はそのひとつ)はデ・ハビランドのブランドとともにカナダのバイキング・エアーに売却してしまい、航空機生産からは撤退してしまいました。さてこの先どうなることやら。

余談をもう一つ。フレデリック・フォーサイスの短編小説『シェパード』にモスキートが登場します。第二次大戦後の北海上空で遭難しそうになったバンパイア戦闘機を救出するモスキートの不思議な物語です。

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